JCADの歩み

1990年8月、猛暑の前橋で開催された世界選手権自転車競技大会において、当時高校生だった稲村成浩選手と斎藤登志信選手がペアを組み、タンデムスプリントに出場。 世界の強豪を相手に見事銀メダルを獲得、世間を沸かせた。 この偉業は視覚障害を持つまで自転車を楽しんでいた1人の青年にとって大きなモチベーションとなった。 「視覚障害があっても、タンデムを使えば自転車に乗れる。 やってみよう。」 

同年11月、27歳の視覚障害者菊池豊明を中心に「第1回タンデムサイクリングを楽しむ会」を開催、同時に「日本障害者自転車協会(JCAD)」が設立された。

以後毎年2回ほどのペースで「楽しむ会」を開催。 回を重ねるにつれ、サイクリングだけでは物足らず、競技志向を持ったサイクリストが現れるようになったり、視覚障害以外にも脳性まひや運動機能障害などを持ったサイクリストからも問い合わせが寄せられるようになり、93年より全国大会である「日本障害者自転車競技大会」が行われるようになった。 また、国際大会への参加はJCAD設立の翌年のフランスにはじめて参加した。 国内の一般のレースにも健常者に混じって耐久レースを中心に出場してきた。

国内においては障害者が自転車の練習をする環境は望ましいものではない。 2人乗りタンデムの事実上の禁止、狭く交通量の多い一般道。 そんな中も、選手・関係者は努力・工夫を重ね、過酷な練習に耐え、もがきつづけた結果、パラリンピックなどの国際大会及び国内のレースにおいて輝かしい成績・記録を収めてきた。


しかし、悪質・不当な金銭等の不条理なトラブルがいくつか起き、選手・スタッフを不必要に苦しめた。突然40万円もの請求をされ、泣きながら「もうやっていけない」とつぶやいた障害者選手。 勝手にメカニックを送り込んでおきながらその費用をも選手に請求、そんな悪質な事件があった。 レース・練習どころではなかった。 障害者組織ということで舐められてしまうのか,恫喝まがいの言動を浴びせられ、身を縮める日も多かった。 程度の低い事件への対応に追われるという馬鹿げた時期が続いたりもした。 

その一方で、熱心にサポートする役員が年間200万以上にも及ぶサポート費用を捻出し、文字通り血を流しながら選手と必死になって共に歩みを進める姿もあった。 また、多くの真摯な自転車関係者の方々からご支援・叱咤激励を頂き、下を向きがちな姿勢を立て直すことが出来た。

数々の問題、不便極まりない環境、そして長く厳しい練習を乗り越えて迎えた2006年9月のIPC(国際パラリンピック委員会)世界選手権(スイス・エーグルのUCIワールドサイクリングセンターで開催)。 すでに海外強国の選手はすっかりプロ化していた。 状況は2000年ごろとはまったく変わっていた。 しかし日本チーム選手は、多くの方々からの支援に支えられ、銀2銅2のメダルを獲得するなど大きな成果を示した。 プロ化した外国勢は驚きの目で日本選手を見た。 またLC(運動機能障害)クラスの選手がアテネパラリンピック代表で選ばれたり、ハンドサイクルも加わるなど、ここ数年裾野の広がりを見せた。

2006年エーグルでのこの活躍の後も、選手・関係者を取り巻く環境は恵まれたものとは言えない。 それでも選手たちはさらなる向上心をもってもがきつづけている。 一般健常者のように自由に自転車に乗ってただ単に自転車に親しみたい障害者も数多くいる。 今後はさらに多くの純粋に自転車が好きな人たちと行動を共にすることにより 日本における障害者自転車の更なる普及発展を求めていくだろう。 障害者自転車もUCIのカテゴリーの1つとしてその統括権がIPCからUCIへ移管された。 もはや障害者自転車競技は障害者だけのものではなく、JCADは今後さらに多くの真摯な方々と一緒に歩んでいく。

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